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本 Archive

植物男子ベランダー

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「植物男子ベランダー」
脚本、選曲がサイコー!で、とにかくシビれる粋?な番組。
そもそも、原作:いとうせいこう、主演:田口トモロヲ、というだけでちょっとステキじゃないか。

「孤独のグルメ」もそうだが、最近は原作のテイストを維持しながら映像・音楽ならではの表現を最大限いかした、原作ファンを裏切らないドラマ化に成功している作品が多いように思います。

音楽と植物が好きな男子(別に女子でもいいけど...)には、自信を持ってオススメいたします!

言っておくが、ベランダーは単に都会の趣味人ではない。空を共有する世界の労働者諸君と連帯をしているのである。このことを忘れてもらっては困る。だからこそ俺は、トロ箱に植物を入れ、各地の道路を不法占拠するばばあどもにエールを送っているのである。階級をわきまえずエセガーデナー気分にひたる日本の頭の悪いプチブルどもと我々は、敵対関係にあるのだ。
これがベランダー思想というものである。植物主義は幻想を許さない。植物たちを通して社会的現実を凝視し、自らの立場を鮮明にし続ける。
だからハーブは、俺たちのシンボルでもあるのだ。

「ボタニカル・ライフ―植物生活」 いとうせいこう著 より

ボタニカル・ライフ―植物生活 (新潮文庫)

  • 2014年6月21日 20:44
  • Posted by: かえる

森の図書室

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夜中にお酒を飲みながら本を読むのは、至福のひととき。

でも、バーはそういう場所じゃないし、居酒屋だと明らかにヘンな人、いわゆるカフェは悪くないけどオジサン的には落ち着かない...ということで自宅以外だとイマイチ楽しめる場所が思いつかないのですが、コレならコンセプト的にはバッチリ!だな、ということで、ワタクシも晴れて流行のクラウド・ファウンダー?になってみました。

雑居ビルにひっそり掲げられた本の森マークの看板だけが目印。入り口も本棚のドア!なのが本棚の写真集(というのが世の中にはあるのだ...)収集家のオレ的に、なかなか気分が盛り上がります。

オススメ本をコメント付きで蔵書に加えてもらえるというので、アレにしようかコレにしようかさんざん悩んだあげくに、月並みだけど明らかな名著をチョイス。育児の座右本としてオススメです。

読書するには音楽ボリュームやや高めという気はしないでもないですが、本フェチの秘密クラブと思えば、なかなかよい雰囲気かと。
当方初来店のこの日は、日テレの未来なんとかという番組が取材にきてました。

ちょっと根をつめて勉強しなきゃいけないことがあるので、しばらく通うことになりそうです。

森の図書室
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※以下、リポート。写真をクリックすると拡大し、画像の右半分(もしくは矢印マーク)をクリックで次の写真に移動します。

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  • 2014年6月19日 23:55
  • Posted by: かえる

村上本棚 あるいは「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」

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村上春樹の新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」、売れまくってるみたいですね。

龍と春樹の両村上氏は、学生時代からのぼくの2大アイドルなので、自室にはいわば「村上本棚」といった趣の一角があります。
棚の6段半が村上本で埋まっている状態。
新作が出たら、もちろん買わないわけにはいきません。
読んでしばらくしたら、細かい内容は記憶の彼方に消えていってしまうんですけれどもね。

村上龍の新作「55歳からのハローライフ」を読んだ際にも感じたことだし、こうやって村上本棚をあらためて眺めてもつくづく思うのだけれども、今や日本を代表する偉大な小説家であるこのおふたりは、いつの時代でも果敢に新しい挑戦をされていて、作品はもちろんその姿勢そのものに感動させられてしまいます。
新作をリアルタイムで読める時代に生まれたことを、幸せに思います。

余談ですが、昔のエッセイには、お互いの話題がたまに出てきますし、両氏の対談集も出版されています。
村上龍さんと村上春樹さんにかつてのような親交はもうないのかもしれませんが、お互いにリスペクトというか、ある種の共闘意識のような感情がうかがえる記述を今でもたまに目にすることがあり、双方のファンとして嬉しくなります。
ちなみに、前出の対談本のタイトルの由来ともなっているあとがきの一節は、ふたりの関係を暗示していて、それから何十年も経た今でもグッと胸にきます.....!!
僕らが演奏家だったら、あのいかした曲を、ギターとベースで一緒にやれるのになあ、そう考える。 小説家は、同じ曲を演奏することができない

そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」   村上春樹 著 より

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」 村上春樹著

  • 2013年4月21日 18:36
  • Posted by: かえる

勇気、こそがすべて - 55歳からのハローライフ

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数週間前に引っ越しをしたのだが、本(とCD・レコード)が詰まった段ボールの山に唖然としてしまった。
ああ、昔はこんなに本を読んでいたのだなぁ、と。

3年ほど前にスマホに替え、何となく通勤時間の暇つぶしに困らなくなり、ちょうど時を同じくして職場が変わって忙しくなったことから、あれほど習慣化していた読書からいつの間にか遠ざかってしまっていた。
もちろん、いわゆる電子書籍も購入するのだが(キンドルのアプリはなかなかの優れものデス!)、なんというかやっぱり夢中で本を読む感覚ではなくなっていたのですよね。

でも、やっぱりさあ、本はイイよね。
心だけでも、いつでも旅に出られるから。
と、改めて思った今日この頃なのです。

てなわけで、本日読了したのは相変わらずの村上龍の「55歳からのハローライフ」。
いやぁ、泣けました。。。
特に「ペットロス」とか「空を飛ぶ夢をもう一度」とか「トラベルヘルパー」とか。 人間何歳になっても、ずっといつまでも、大切なのは、ほんのちょっとした勇気だよな、やっぱり。
どんなにちっぽけでも、誰にバカにされても、ソレさえあれば大丈夫だよ。
思えば、勇気を持った決断の末の行動で、失敗したことは、少なくても後悔したことは、ぼくにしたってただの一度もないもんな。

なんてことを感じた今日この頃なのです。。。

「55歳からのハローライフ」村上龍

  • 2012年12月19日 23:55
  • Posted by: かえる

グルメスポット埼玉2012

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行きつけのおいしいお店を何軒か持つ人は、おおむね幸せな毎日を過ごしているんじゃないだろうか。たぶん。


おいしいお店は、美味しい。新鮮な素材、正確な技術、大胆なアイディア、美しい彩り。
おいしいお店は、優しい。はじめての客も、おひとりさまも、小うるさいグルマン達も、小さな子供連れも、笑顔で迎えてくれる。
そして、おいしいお店は、楽しい。
そこで働く人々の、ささやかで確固たる哲学や美意識。それを表すインテリアや音楽、凜としたこだわり。


山口瞳は、「行きつけの店」のあとがきにこう書いている。
「私は、旅館、料亭、小料理屋、酒場、喫茶店などは文化そのものだと思っている。そこで働く人たちも文化である。私自身は、そこを学校だと思い、修行の場だと思って育ってきた。」


食べることは、生きること。
生きることは、食べること。
そのための時間を粗末にすることは、人生を雑に過ごすということだ。
文化に対しての関心を欠くことは、人が生きていく上での喜びのある部分を捨てるに等しい。
おいしいお店を知ろうとする人は、日常の中にある幸せを、きっと上手に探し出すことが出来るだろう。
たぶん、そういうこと。


ところで、埼玉県には、いつの間にか、おいしいお店が増えた。
コストの事情から都内での良心的な経営を断念した志高い料理人の店、若い方が試行錯誤しながら頑張っているお店、え~こんな場所に!と驚くような洒落た古民家カフェや小さな郊外型レストラン。
いずれの店も、ヘンに格式張ったこともなく、リーズナブルかつ気楽に外食を楽しむことが出来る。
もっとも、客の多くは都心に勤めており、それなりに有名店の味やサービスも知っているため、求めるレベルは自然とキビシイものになる。


もう一度、言おう。
埼玉県には、おいしいお店がたくさんある。
あぁそうか、それは偶然ではなく必然なんだな。


一日の終わりにひとりでフラリと立ち寄りたいお店も。
いつもの仲間といつまでも語り合っていたいお店も。
大切な家族と休日のひとときを楽しむためのお店も。
特別な日に特別な人と訪れたい、特別なお店も。
ここには、きっとある。


さあ、おいしい幸せ、探しましょ。。

幹書房という出版社から「グルメスポット埼玉 2012」という飲食店のガイドブックが発売された。
埼玉県内の大型書店であれば、大体置いてあると思います。
よければ手にとって見ていただきたいし、さらにそのままご購入いただけると、大変嬉しいです。
なぜならば.....

2年前に、ちょっと思うところあって、大学卒業以来約20年間勤めた会社を辞め、しばらく自由な時間ができた時期がありました。
その時に、これまたちょいと思うところあって、地元の出版社に持ち込んだ企画が、やっと具現化されたものだからです。
当初は、店舗紹介の写真や文章も直接担当させていただく予定でしたが、出版予定が延び延びになっている間に、縁あって再就職しサラリーマン生活が忙しくなってしまったりして、最終的には基本コンセプトと掲載店のセレクションという関わり方に落ち着きました。
連日連夜、埼玉県内のフレンチだのイタリアンだの居酒屋だのを1人で巡ってリストアップを行っていた日々を、今では懐かしく思い出します。客観的に言えば、いわゆる無職の状態ですからね。世は100年に一度とも言われる大不況のさなか、立派な貯金があるわけでもないのに、我ながらなんとも暢気なものです。
まぁでも、人が白と言ったら黒、右と言ったら左、常に逆、ひねくれた道を選ぶのが、幼少の頃より身についたワタクシの生きる上でのストラテジーですから.....楽しく不思議な毎日でした。

そんなわけで、この本の「東部エリア」を除く掲載店の大部分は、ぼくが作成したリストに由来しています。
もっとも、大元となるリストを作成したのは1年以上前ですが、新しい協力者の方も加わり、実際に掲載店を決め、取材などを始めたのは今夏のことです。このため、ぼくのリストには載っていなかったお店もけっこう含まれていますし、個人的に「ここは外せない」と思っていたお店で取材NGのため非掲載となったケースも意外なほど多くありました。

ぼくが選んだ「おいしいお店」は、冒頭の文章にあるような、どちらかというと主観的な視点で定義した「おいしい」を基準としています。
なんて言ったらいいのかなぁ、何かしらの要素を得点化して順位を付けた美人コンテストを行うのではなく、「こういう女の子ってグッと来るよねぇ」といった感覚的且つ個人的な基準に沿った情報を提供することで、「あぁ確かに、でもああいう娘も素敵だよね」みたいな「自分にとっての素敵なこと」を再確認して欲しいという思いがあるからです。いや、よくわからない下品な例えで申し訳ありませんが...

実は、幹書房の「グルメスポット」シリーズには、すごく思い入れがあります。
ぼくは基本的にガイドブックのようなものはあまり信用していないのだけれど、幹書房のグルメガイドは自分の感覚にとてもフィットして、昔よく愛読していたのです。
企画を持ち込んだときに、「ちょうどグルメスポットシリーズを復活させたいと思っていた」という話になったときは、不思議な感動を覚えました。

ちょっとお洒落をしてみる、知らない街の裏通りを歩く、気の利いた音楽を聴く、素敵な風景の場所を探す、行きつけのおいしいお店を持つ、そういう小さなワクワクを積み重ねていくことのそばに、生きていく上での喜びや幸せを見いだすコツはあるんじゃないだろうか。
わざわざ大袈裟に言うとばかみたいだけれども、ぼくはそんな風によく考えています。

もし読んで下さった方が、この本がきっかけとなり自分だけのおいしいお店を見つけてくれたら、とても嬉しく思います。

さて次は、北関東のバーガイドとかやりたいなぁ。 どこかノってくれないかしら。

「グルメスポット埼玉2012中央・東部・北部」

  • 2011年11月20日 19:09
  • Posted by: かえる

峠にたつとき

峠は決定をしいるところだ。
峠には決別のためのあかるい憂愁がながれている。
峠路をのぼりつめたものは
のしかかってくる天碧に身をさらし
やがてそれを背にする。
風景はそこで綴じあっているが
ひとつをうしなうことなしに
別個の風景にははいってゆけない。
大きな喪失にたえてのみ
あたらしい世界がひらける。

「峠」 真壁仁

有名なこの詩は、いつどこで目にしても深く心に沁みますなあ。

峠にたつとき

すぎ来しみちはなつかしく
ひらけくるみちはたのしい。
みちはこたえない。
みちはかぎりなくさそうばかりだ。
峠のうえの空はあこがれのようにあまい。

「峠」 真壁仁

とりあえず本棚に積み重ねたままで未だに片付けていない書籍の束から何気なく手にして、しばらくフムフムと感じ入ってしまった、今日この頃。

たとえ行手がきまっていても
ひとはそこで
ひとつの世界にわかれねばならぬ。
そのおもいをうずめるため
たびびとはゆっくり小便をしたり
摘みくさをしたり
たばこをくゆらしたりして
見えるかぎりの風景を眼におさめる。

「峠」 真壁仁
  • 2011年6月26日 23:02
  • Posted by: かえる

悠々として急げ

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座右の銘、でゴザイマス。

  • 2011年5月29日 20:20
  • Posted by: かえる

「孤独の愉しみ方」森の生活者ソローの叡智

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ヘンリー・ディヴィッド・ソローの「ウォールデン-森の生活」を読んだのはいつの頃だったろうか。
敬愛する田渕義雄さんの座右の書ということで、手に取ってみたものの、「まぁなんというか、要するに、偏屈なオッサンなんだなぁ」というのが正直な読後感であった。もっとも、偏屈なオッサンは個人的には好きなんだけれども。

「みんな」という言葉にまどわされてはならない。
「みんな」はどこにも存在しないし、「みんな」は決して何もしてくれない。

「孤独の愉しみ方」 服部千佳子 訳  より

代表的な著書から抜粋した文章が、見開きの右頁にアフォリズム的に、左頁には解題の風情で、印象的に構成されているスタイル。

行き先を考えずに歩く。
そうすれば、自然と正しい方向へ導かれる。


ときどき、どちらへ歩いていけばいいか決められない場合があるが、どうしてだろう。自然界には精妙な磁力があるので、何も考えずに従っていけば、おのずと正しい方向へ導かれるはずだ。どちらの方向へ歩いていくかは、どうでもいいことではない。正しい方向は、たしかに存在する。しかし、僕たちは無頓着さと愚かさのために、えてして間違った方向を選んでしまうのだ。

「孤独の愉しみ方」 服部千佳子 訳  より

なかなかイイことを言うオッサンではないか。
要するにこういうことなんだな。

歩け、森の中を。
歩かない足は、やがて身を滅ぼす。

「孤独の愉しみ方」 服部千佳子 訳  より

「孤独の愉しみ方―森の生活者ソローの叡智 」

  • 2011年2月27日 22:25
  • Posted by: かえる

短距離走者の瞬発力 - 「歌うクジラ」

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各人の筋肉の構造バランスにも、長距離走者型と短距離走に向くタイプがあるというが(いわゆる遅筋と速筋がどうしたこうした.....)、小説家も同様に両タイプに分かれる、ような気がする。
長編小説家と短編小説家という意味では、ない。
同じ長編小説であっても、緻密な構成と計算されたペース配分によって物語の世界に徐々に読者を引き込んでいくパターン、そして、時にはたった一行の文章で読者をノックダウンさせるタイプ、の違いである。
ぼくにとっての大昔からの2大アイドルを例に挙げると、村上春樹は前者、村上龍は後者である。まぁ、異論はあろうかと思いますが。

あなたの一番好きな小説は?、との質問に正確に答えることは難しいが、「コインロッカー・ベイビーズ」はこの数十年間にわたって常にその第一候補である。
あの作品のように、短距離を全力疾走し続けるような文章を重ねて長編小説を完成することは、もうないのかもしれない。
それでも、(たぶん村上春樹にはない)爆発的な瞬発力が、村上龍の文章と小説にはある、ような気がする。

待ちに待った新作長編は、個人的には正直それほど楽しめなかった。
それでも、退屈で冗長(とぼくは感じた)な地獄巡りの憂鬱を一瞬で帳消しにする、文章の速筋力(??)は健在で、ちょっとグッときました。

単に誰かといっしょに何かを眺めたり、何かを聞いたり食べたりした記憶に、どうしてこんなに強い力があるのだろうか。涙があふれそうになっているのに気づき、愕然とした。ぼくは怒りと無力感にとらわれている。

「歌うクジラ」 村上龍 著  より

音楽は、一瞬で世界を変えることが出来る。
ジェフ・ベックも、吉田美和も、アート・ブレイキーも、それが出来る。ただ一音のチョーキングやスキャットやドラムロールによって。
小説にはなかなかそれが出来ない。普通は、何ページも何十ページも必要だからだ。
しかし、村上龍の小説にはそれが出来る、ような気がする。

もしかしたら、村上龍の小説は、音楽的なのかもしれない。

大切なことを理解した。ぬくもりも音も匂いもない宇宙の闇の中で、気づいた。生きる上で意味を持つのは、他人との出会いだけだ。そして、移動しなければ出会いはない。移動が、すべてを生み出すのだ。しかし、せっかく気づいたのに、それらを活かすことなくぼくはこれから死を迎えるのだろうか。だが、人間の一生とはこんなものかも知れない。誰もがいろいろなことに気づき、だがそれを人生に活かすことができないという怒りを覚えながら消えていく。
~中略~
ぼくは生まれてはじめて、祈った。生きていたい、光に向かってつぶやく。生きていたい、ぼくは生きていたい、そうつぶやき続ける。

「歌うクジラ」 村上龍 著  より

「歌うクジラ 上」村上龍 著

  • 2010年11月 7日 15:27
  • Posted by: かえる

日帰りひとり旅(その1)...?!野毛の「ブックカフェ風信」へ

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乗り換え考えるのメンドクサイから、ひたすら京浜東北線に揺られて、はるばる桜木町まで。
休日の気ままな日帰りひとり旅?である。

目的は、以前「野生の花」という本に関してブログに記したことをきっかけに知った「ブックカフェ風信」さんにお邪魔すること。
店内の雰囲気とか、置かれている本の傾向とか、珈琲やお酒のこだわり具合とか、想像以上に想像どおりで、思わずにんまりとしてしまった。
わざわざ定期的に汲みに行っているという南アルプスの伏流水で淹れた珈琲をいただき、旧版の「バー・ラジオのカクテルブック」と串田孫一「四季の無言歌」を購入。
素敵なお店でした。

それにしても、野毛って魅力的な街ですねえ。
横浜方面にはほとんど出かけないのでよく知らなかったのだが、フラフラと吸い寄せられてしまいそうな居酒屋とかカフェとか定食屋とかバーとか、まさにオレ好みの小さな店が山ほどありました。
住んでる人は、きっと楽しいだろうな。

ブックカフェ風信
横浜市中区野毛町3-142

  • 2010年5月22日 23:48
  • Posted by: かえる

パパとあたしのキャンプ

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パパとあこちゃんと犬のサスケが、キャンプをするという内容の絵本。
テント張ったり、薪を集めて焚き火したり、みずうみで遊んだり。

キャンプはいいね。
子供はちょっとだけ大人になり、大人は子供の頃のあの気持ちを思い出す。
犬は犬で、楽しそうだし。

ずいぶん昔、あるキャンプ場で、二人きりでキャンプ中の中年男性と小学生位の男の子の様子ががあまりに素敵で、なんだか羨ましいような気がして、しばらくボケッと見とれてしまったことがある。
会話は聞こえなかったが、おそらく親子なのだろう。そして、息子さんはダウン症児のようだった。
ぼくは、「もしかしたらこういう風に感じるのって、内なる偏見とか差別意識によるものなのだろうか?」とちょっと不安に思ったりもしたのだが、そのうちにどうでもよくなってしまった。
テントを立てたり、水を汲みに行ったり。二人とも、とても楽しそうだったからだ。
たぶん父親は、本当にキャンプが好きな人なのだろう。そのことだけは、遠くから眺めているだけでもよく分かった。すごく格好のいいキャンパーだった。
今でも強く印象に残っています。

「ねえ パパ。ママは とおくの まちに いるんだよね。」
「そうだよ。」
「パパは どこにも いかないよね。」
「どこにも いかないよ。さあ、おやすみ。」

「パパとあたしのキャンプ」 作・絵 / 鈴木永子 より

何らかの理由で亡くなってしまったのだろう(あるいは離婚をしたのか...)、あこちゃんのママはキャンプに参加していない。
でも、いいさ。あこちゃんもパパもサスケも、楽しそうだ。
誰だって皆、それぞれ小さな痛みや不安や事情をかかえて生きているんだ。

そう、キャンプはいいね。

「パパとあたしのキャンプ」 作・絵 / 鈴木永子

  • 2009年7月 4日 20:45
  • Posted by: かえる

1Q84、あるいは勇気について

話題沸騰、売れまくりらしい村上春樹の新作「1Q84」、やっと読み終わりました。

希望、いや勇気に関する物語。

村上春樹さんは、勇気のある作家だ。
元々その作品群は、日本の社会とかブンガクとか、そして日本語そのものからも一定の距離をおくことによって人気を得てきたはずである。物語の発するメッセージというよりは、暗喩的な展開や洒脱なレトリック、「僕」の物語でありながらどこか第三者的な世界観に、みんな魅了されたのだ。
しかし、よく言われるように、海外での生活、阪神大震災、地下鉄サリン事件、9.11、を経てからの作品は、彼なりのスタイルで必死に日本の社会、そして世界へとコミットを始めた。
それが、純粋に作家としての好奇心・向上心からなのか、ある種の責任感に由来するのか、一人の人間また自立した社会人として成長・成熟した結果なのか、いったい何故なのか?はよくわからない。いずれにせよ、人気作家として勇気ある姿勢だと思う。
なにもそんな挑戦をしなくても、書いた作品は飛ぶように売れる状態にあったわけだから。

ともかく、この作品はそんな村上春樹の新しい挑戦の集大成であり、村上春樹の新しいニホンゴにも出会える。
ぼくがすごく好きな初期の作品に「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」という短編があるのだが、この「1Q84」は物語の大きな骨組み、いやモチーフと言うべきか、ともかく何かしら共通の要素を持っている。
しかし、ふたつの作品は、あらゆる意味でまったく異なる性格を持ち、最終的に別々の方向を向いている。
そして、そのことが村上春樹さんのデビュー以来の勇気ある歩みを象徴しているように、ぼくには感じられるのです。

「死は生の対極としてではなく、その一部として存在する(「ノルウェイの森」より)」ように、物事の光と影、そして善と悪も、また互いに内包される不可分な存在である。
これまでと同じ主題が提示されるが、その非情な真理に対する姿勢は変化を見せている。
もう、「僕」はただ途方に暮れるだけではない。

彼の、あるいは我々の、勇気は、彼女の、あるいは我々の、「灰色の迷宮」に向けられた銃口に、打ち勝つことが出来るのだろうか?
日本だけですでに100万部を超えたというこの作品の読者は、果たしてどう感じたのだろう。

彼女はこれまでに自分が失ってきたもののために泣いた。
これから自分が失おうとしているもののために泣いた。

「1Q84」 村上春樹 著  より

「1Q84」 村上春樹 著

  • 2009年6月10日 00:48
  • Posted by: かえる

未完の傑作

栗本薫さんが亡くなられた。

以前にも記事にしたが、「グイン・サーガ」シリーズは、この四半世紀以上に渡って、新刊が出る度に欠かさずに読んできた。
ぼくが書店に行ってまず最初に確認するのは、「グイン・サーガ」の新刊が出ているかどうか?である。
単なる好きな小説とかそういうレベルではないのだ。
最近のあとがきでは、闘病生活に触れられていることも多く、正直いつかこのような日が来ることを予期していたとはいえ、やはりショックです。

すでに本編126巻が発表されている世界最長の大河小説「グイン・サーガ」は、永久に未完のままとなってしまった。
きっと、一番悔しいのは、栗本薫さんご本人だろう。
ある種の小説家は、比喩ではなく本当に、ひとつの宇宙を創り出すことが出来るのだ。
そのことを、ぼくはこの小説から教えてもらった。

ご冥福をお祈りいたします。

かれらは運命の神ヤーンによって動かされていた。しかしかれら自身は自らが運命の糸の上にあることを、未だ知らなかった。

グインサーガ(1) 「豹頭の仮面」 栗本薫 著 より
  • 2009年5月27日 22:12
  • Posted by: かえる

串田孫一の美しい言葉、あるいはボタニカルアート画文集「野生の花」

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何度も書いているが、串田孫一さんの「断想」にはいつもウットリとさせられてしまう。
この「野生の花」は、32種の野生の花を題材とし、荒谷由美子さんが絵を、串田孫一さんが文章を担当した、ボタニカルアート画文集なのだが、序文となる「花についての断想」が(もちろん、本文もだが...)例によって実にシビれる美文なのだ。
古書店の店頭でページをめくり、最初の3行を読んだ時点で、レジに向かってしまいました。

 私は自分の部屋に花を飾る習慣がない。だが、私を訪ねて呉れた人が玄関に立ち、小さい花束を差し出したらば、それを受取る時の作法は心得ているつもりである。
 その花に似合った花瓶の一つを選び、早速訪問客と私の間の卓の上に置く。そこに置くのには少し大き過ぎれば、脇に場所を仮りに設けて、雰囲気を作る。するとそこに、花と人間とが長い間続けてきた歴史が見えてくる。
 好意が新しい舞台をしつらえる。仮令(もし)一匹の蝶が、開け放った窓から舞い込んで来て、その花の一つにとまるというような演技を見せて呉れなくても。

~中略~

 知らない花を見る度に、何とかして名前を知りたいものだと焦るのは、本当は餘りいい習慣ではない。名前を忘れた花を見ると、直ちに苛立ちが起こって、多分顔を顰めている。花はその人の顔を不思議そうに見ている。
 人は自分達の附けた花の名称の波を泳ぎ廻ろうとして、溺れそうになっている。

「野生の花」 文:串田孫一 絵:荒谷由美子 アトリエ風信刊 より

花を忠実に丁寧に写生することにより、(例えばドクダミであっても)「美しさがよく判り出し、匂いも大袈裟にいやがるようなことがなくなった。これによって得た教訓は大きかった」と書かれているが、もちろん素人の写真撮影の対象としても、花は魅力的である。
たとえ道端に咲いているありふれた雑草のような花でも、レンズを通してじっくり見ると、そして好みのアングルで切り取ってみると、やはりどれもこれもキレイだからね。
でも、こんな風に書かれているのを読むと、思わず絵を描く趣味を持つ人のことが羨ましくなってしまいますな。

 写真には恐らく別の教訓があるに違いない。然し描くことは時間を忘れての花との附合いがあり、想いの交換があり、それを基盤にした悦びがある。

「野生の花」 文:串田孫一 絵:荒谷由美子 アトリエ風信刊 より

ところで、ちょっと調べてみた範囲では、どうもこの画文集「野生の花」は、すでに絶版のようだ。
絵も文章も、とても美しい本なのに残念です。

  • 2009年4月11日 21:21
  • Posted by: かえる

ずーっと ずっと だいすきだよ

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小さな子供がいると、絵本を読む機会が多い。
まぁ絵本に限らないのだが、子供向けの作品に大人になってから接すると、ミョーに感心したり感動したりしてしまうことが多いものだ。

最近になって、本を読んでもらうことがますます好きになってきたらしいミドリ。
図書館や書店で、逆にこちらが、子供の頃に好きだった絵本が現在でもよく読まれているとを知って懐かしんだり、初めて知る物語にハッとさせられることも多い。
今日は、たまたま手に取った「ずーっと ずっと だいすきだよ」に、思わずジィ~ン。

うううぅー、この本はヤバイ。ヤバイです。

「ずーっと ずっと だいすきだよ」ハンス・ウィルヘルム 著 久山 太市 訳

  • 2009年2月28日 23:54
  • Posted by: かえる

マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと

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犬と暮らし始めると、飼育書の類はもちろん、本のタイトルに「犬」とあるだけで、思わず反応してしまうものだ。
「Marley & Me - life and love with the world's worst dog」は全米で200万部を超えるベストセラーであり、その日本語訳となるこの「マーリー  世界一おバカな犬が教えてくれたこと」も、仕事帰りにいつも立ち寄る書店で長い間平積みにされていた位だから、日本国内でも相当多くの人に読まれているだろう。
もちろん気にならないわけがなく、何度も手に取ってはみたものの、「やんちゃなラブを飼い始めたカップルに子供が生まれ、やがて犬も年老いていき....」といった内容は、個人的にあまりに過剰に感情移入してしまいそうで、何となくそのままになってしまっていた。
しかし、映画化作品(モータン、予告編見ただけで泣いてます....)の日本公開も近づき、先日あわてて原作を読了したという次第である。

もっと犬のことを、特にラブラドールのことを、よくわかった人が慎重に育てていれば、マーリーはあれほどストレスまみれで破壊行動に走ることもなくあれほど雷の音に怯える必要もなかったのではないか?、(飼い主なりに犬を愛していたことはわかるが)要するに巷によくある「おバカな飼い主を持ってしまった気の毒な犬の話」なのではないか?.....といった感想を述べるのは簡単だろう。
マーリーの問題行動やそれに対する家族の対応に、本来行うべきであった「正しい」対処方法を指摘することも、それほど難しいことではないかもしれない。
でも、この本を読んで、そんな気持ちになる人は、おそらくほとんどいないだろう。

犬と暮らすからには、壁は壊れるし、クッションは破裂するし、敷物はぼろぼろになるものだ。どんなつきあいにも犠牲はつきものだ。僕らはその犠牲を受け入れたし、マーリーはそれに見合うだけの喜びや楽しみや保護や仲間意識を与えてくれた。マーリーにかかった費用や修理代などを総計すれば、きっともうヨットを買えるくらいにはなっていただろう。けれど、ヨットを何隻持っていたところで、玄関で一日中帰りを待っていてはくれない。膝に乗ったり、一緒にそりで丘を滑ったり、顔をなめたりはしてくれない。
「マーリー」ジョン・グローガン著 古草秀子訳 より

著者ジョン・グローガンの文章は、新聞社のコラムニストらしいウィットに富み、(犬の飼い主にありがちな独りよがりで視野の狭い愛情表現を避けて)やや距離をおきながらも、愛犬への眼差しはあくまでも優しく温かい。
犬と暮らす人ならば、あるいはかつて暮らした人ならば、きっと何度も頷き、笑い、胸の奥を摑まれるような気持ちを味わうことになるだろう。
(周囲の人に気味悪がられるから、電車の中で読むのは止めた方がいいかも.........)

なぜならばここには、幼稚な「正しい犬の飼い方」ではなく、より普遍的な「犬を飼うというのはどういうことなのか?」が描かれているからである。
「犬を飼うってステキです -か?」にも、平岩米吉の数々の著作にも、そしてこの「マーリー」にも、犬との暮らしを描いた優れた書物にはすべて同じコトが書いてある。

犬と暮らし、やがてこの感慨を持つに至った人は、きっと幸せな飼い主であろう。
そして、その家族と共に暮らした犬の生涯もまた幸せであったと言える、と信じたいものですね。

それを象徴するかのような場面がこの本には登場するが、おそらく映画の中では非常に美しいシーンとなっていることだろう。
なんとなく、映画化にとても向いた作品だと感じます。公開が待ち遠しいです。

そんなこんなで、映画「マーリー」のホームページをチェックしてみたら、コレ発見!
さっそく、我が家の愛しきバカ犬・モーフィーとミドリ連れて、写真撮りに行かなくちゃ~~~!!! 

※後日注
自分で書いておきながら、きれいサッパリ忘れていて、結局応募せずじまい.......
コメントくださった、しずくパパさんは見事入賞されたようです
ウラヤマシィ~~&おめでとうございます!!!

                                                        

「マーリー」ジョン・グローガン著 古草秀子訳

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※以下引用は、ある意味ネタバレっぽいのでご注意くださいませ。

常識はずれな考えかもしれないけれど、マーリーを失ってみてはじめて、すっかり合点がいったことがある。マーリーは良き師(メンター)だったのだ。教師であり、手本だったのだ。犬が--それもマーリーのような、かなりいかれた、やりたい放題の問題犬が--人生において本当に大切なのはなんなのかを、身をもって人間に示すなんて、できるのだろうか? 答えはイエスだと僕は信じている。忠誠心。勇気。献身的愛情。純粋さ。喜び。そしてまた、マーリーは大切でないものも示してくれた。犬は高級車も大邸宅もブランド服も必要としない。ステータスシンボルなど無用だ。びしょぬれの棒きれ一本あれば幸福なのだ。犬は、肌の色や宗教や階級ではなく、中身で相手を判断する。金持ちか貧乏か、学歴があるかないか、賢いか愚かか、そんなこと気にしない。こちらが心を開けば、向こうも心を開いてくれる。それは簡単なことなのに、にもかかわらず、人間は犬よりもはるかに賢く高等な生き物でありながら、本当に大切なものとそうでないものとをうまく区別できないでいる。
「マーリー」ジョン・グローガン著 古草秀子訳 より

  • 2009年2月21日 14:12
  • Posted by: かえる

センス・オブ・ワンダー

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かの「沈黙の春」 の著者であるレイチェル・カーソンの最後の作品。
海辺の別荘で、甥のロジャーと過ごした日々の随想を、美しく力強い文章で綴っている。

 子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。
 もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を授けてほしいとたのむでしょう。
 この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。
「センス・オブ・ワンダー」 レイチェル・カーソン著 上遠恵子訳 新潮社刊 より

いやはや、まいりました。とてもとても素敵なエッセイです。
生物学者や作家というよりも、この女性はロマンチックな詩人ですねぇ。
思えば「沈黙の春」も、あの静かな恐怖を感じさせる序文がなかったら、その後大きな環境保護ムーブメントを巻き起こすきっかけとはならなかったのではないでしょうか。

 多くの親は、熱心で繊細な子どもの好奇心にふれるたびに、さまざまな生きものたちが住む複雑な自然界について自分がなにも知らないことに気がつき、しばしば、どうしてよいかわからなくなります。そして、
「自分の子どもに自然のことを教えるなんて、どうしたらできるというのでしょう。わたしは、そこにいる鳥の名前すら知らないのに!」
 と嘆きの声をあげるのです。
 わたしは、子どもにとっても、どのようにして子どもを教育すべきか頭をなやませている親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。
 子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。
幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。
 美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身につきます。
 消化する能力がまだそなわっていない子どもに、事実をうのみにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるような道を切りひらいてやることのほうがどんなにたいせつであるかわかりません。
「センス・オブ・ワンダー」 レイチェル・カーソン著 上遠恵子訳 新潮社刊 より

子どもを連れて山歩きをしていると、「花の名前とか知ってないと、聞かれたときに格好悪いよなぁ」なんて思ったりもするのですが、大切なことはそういうことではないのですね。
せっかくの機会だから正確な知識を身につけて欲しい、と願うのも場合によっては間違いなのかも。

 人間を超えた存在を認識し、おそれ、驚嘆する感性をはぐくみ強めていくことには、どのような意義があるのでしょうか。自然界を探検することは、貴重な子ども時代をすごす愉快で楽しい方法のひとつにすぎないのでしょうか。それとも、もっと深いなにかがあるのでしょうか。
 わたしはそのなかに、永続的で意義深いなにかがあると信じています。
「センス・オブ・ワンダー」 レイチェル・カーソン著 上遠恵子訳 新潮社刊 より

ともかく、感動しました。
子育てをしている人にはもちろん、そうでない人にもオススメ出来る、味わい深い一冊です。

久しぶりに行った中古レコード・古書店でたまたま見つけたのですが、何となく気になって、そのままレジに向かったのです。
そういう本との出会い方って、なんだかイイものですね。

「センス・オブ・ワンダー」 レイチェル・カーソン著

  • 2009年1月31日 20:12
  • Posted by: かえる

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